2009年06月25日

巨大なエネルギー

kaine_asagao.jpg

おそらく人は、責任を放棄してしまうと
自責の念や罪悪感にもとらわれ日常の平安を得ることが
困難になってしまうでしょう。
おそらく人は、責任から長い間のがれて生きると
虚無感に襲われて堕落した自分を感じてしまうでしょう。
意識の中か、潜在意識の中か・・・そのあたりに
自己の無力が存在することに堪えきれない感情が
巣食っていることに気がついているのだと思います。

こうやって目の前に、幸か不幸か分かりませんが
自分の責任か否かは分かりませんが
ただ、ただ、目の前に起きていることを片付けながら
生きていると・・・しばし、損な性格と思う頃もありましたが
何であっても、どんなことでも
目前に迫りくる問題に身を投じていくこと・・・
それに対して言い訳をしないこと・・・
責任に対して、半端な生き様で生きぬこと・・・
エネルギーが巨大だと巷で噂されているようですが
これも「責任」から離れずに生きてきて
培われた器のように感じているこの頃です。
posted by junko at 02:23| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

スクール説明会にて

geta-haru-2.jpg

毎週、日曜日は12時〜13時の間
日本インテグラル・カウンセリングスクールの
説明会を私の神楽坂の自宅にて開いています。
http://integralcounseling.web.fc2.com/

15日はインテグラル・ジャパンの鈴木規夫先生に学ぶ仲間兼
第一期・心理カウンセラー資格の取得に燃えるTさんと
「人間の成長・死生観・日本の方向性・現存する負の論理を
如何正すか」などをディスカッションしていただきました。
議論は慈愛を注げる人間性というものに達するには
成長の方向性として、如何なる生き方をすべきなのか
慈愛の精神獲得論ノウハウとは・・・まで至りました。
 Tさん、ありがとうございました。

マズローも釈尊もウィルバーも行き着くところは同じだという
議論になり・・・夜になって考えたことがあります。

「人間が、みんな釈尊になれたら、どんな社会になるのだろう」
自己超越・無我の境地・自己忘却、それぞれに言葉は違えど
人が無我の境地に全員、至ることが出来たなら・・・。
うーーん
空想もたまには楽しいものだと、生まれて初めて知りました。

全ての苦悩から解脱し、恐怖や不安が自己の中で消滅し
煩悩の世界から逸脱した人の群れで暮してみる空想は
「科学」という言葉すら凌駕していきます。
おそらく「繁栄」という概念が真っ先に変化していくような
気がしてきました。
カオスに漂うのは恐怖ではなく慈愛という世界になるのでしょうか。
随分と混沌とした社会になる気もします。
ううっ!私の肌には合わないかも。爆。

さて、人が、みな無我の境地に近づけたら
確立された社会とは、どんな様相を得ているのでしょうか。
皆様も、ちょっとだけ、空想の域で浮遊してみてくださいね。
posted by junko at 00:44| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

人間〜誇り〜

hinode-turu-2.jpg

人間としての誇りとは何でしょうか?

カウンセリングの御仕事以外のことです。
今年も年明けから理解不能という事柄が並んでいます。笑。
波乱万丈の人生には慣れていても、理解不可能なことは
不可能なままということだろうと思います。

それにしても、自己の業によって周囲に迷惑をかけることを
多分、何も考えないで、悪気無く出来るということ自体に
「そういう時代」とは言い難い戸惑いを感じます。
本当に「認識」をしっかりと持つということは
社会に生きるにあたって絶対的に必要不可欠なのだと感じています。

私が愛馬*カラブラン*を、引取った時は
同時に職業を無くして将来の目処も立たずにいました。
もちろん、就職も不可能な年齢でしたから
今の職業で身を立てるための学習時間は、かなり必要でした。
だからと言って、引取った限りは愛馬の生命は
「全面的に私の責任です。」
何も大金持ちで馬を所有しているわけではありません。
自分が人参を食べても、やり遂げなければならないことを
やり遂げる・・・これが
私の「人間としての誇り」です。
これからも誇りを持って
ご飯とふりかけを食べ続けていたいと思っています。
そうでなければ、喉に詰まる・・・それが人間が人間として生きる
誇りでは無いでしょうか?

「生き甲斐」そんな言葉を考えたことは無いと思います。
ただ、たった一つ「死に甲斐」だけは持っていたいと
今でも思います。
責任を放棄して生きている人生に何の意義があるのだろうか
これが、私自身の死に様の哲学でもあります。

いつ何時に、そう明日であっても・・・その時に対して
「誇り」をもって去れる自身でありたいと日々の責任を果たして
生きたい・・・その思いが自身の「成功」を生んだのだという
誇りを持って、自分を甘やかさずに生きたいと、そう感じながら。

貴方にとって、人間としての誇りとは何でしょうか・・・。
posted by junko at 20:00| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

この世で一番脆弱なもの

aki_minori-1.jpg

実は、この世で一番、脆弱なものは自分自身の「自我」かも
しれない・・・と、ふと思う雨の夜を過ごしています。

人間は、自分の心を守るために忘却や防衛という道具を使い
まるで石橋を叩いて、欄干から落ちてもショックが少ないようにと
最悪のシナリオを描き架空のクッションにしようとします。
ならば、自己を知ろうとしたとて、一番、計り知れないのも自分自身
という結論に、たどり着いていきます。

「思考」とて「感情」とて、それを正確に把握しようとしても
所詮は、自身に甘いオブラート。
だからこそ、自身に引き摺られずにいたいと
だからこそ、忠実なのは成すべきことを成すことだと

キルケゴールの死に至る病が「絶望」では、あったけれど
絶望さえも捨て去れる術があるのではないだろうかと
夜な夜な、模索してみて時を過ごし・・・

ひとつだけ光明が射した先は
自我への執着を捨てること・・・自我からの脱却
決して美辞麗句では修まりきれない`それ`の中に
スピリチュアル〜「自分を超えて大切なるもの」
人間の成長とは何かを、感じたような気がしています。
結局、絶望を捨て去ることは、絶望を受け入れることなのかも
しれません。


posted by junko at 00:49| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

NEXT

herb-tea-1.gif

3連休・・・もちろん、御仕事はしていますが、合い間にちょっと
楽しんで、片っ端から「医学書」を読んでいます。
しかし、医学書って高いですね〜。
もっとも、値段以上に
「いゃ〜凄い、さすがに名人」と、感服する著書もあれば
「か、か、買うんじゃなかったぁ」と、落胆する著書もあります。

この違い・・・もちろん、私の購入する本は、精神医学の本です。
そして、私たちカウンセラーは、生身の人に接して
その一部始終を肌で、心で受けています。
名人と呼ばれる医師の著書には、自分が臨床で受けた事柄が
更に深く洞察されて、時には理論的に、時にはもっと現実的に
的を射て書かれてあります。
逆に落胆した著書には、ネットに載っているような
「現実は、そんなにスムーズにいかないぞぅ、そんなに簡単にいく
はずが無いだろう」と、感じられるマニュアルだけが
書かれてあります。

名人のひとり友人C子さんの師匠「神田橋條冶先生」の著書
*「現場からの治療論」という物語*(岩崎学術出版社)の
巻頭の先生の御言葉は、精神医学に携る者たちへ名刀の一撃にも
匹敵する凄みを感じさせます。

昔、(神田橋先生は)「病を治すのではなく、人を治す」と
教えられた時代がありました。いまは、病どころか、症状を消す
医療がはびこるようになりました。(中略)
それは「知識栄えて、知恵亡ぶ」「権威栄えて、職人亡ぶ」という
社会全体の流れかもしれません。(中略)


これは、私なりの稚拙な考え方かもしれません。
「病」とは、もしかしたら、人が前進しようとする過渡期に
霧の中で進む方向が見つからずに、暗中模索、五里霧中を
抜け出すために、道慣れた者の力を借りて進んでいくこと
なのかもしれない・・・だとしたら、その道慣れた者たちが
表面上の知識ばかりで、道の硬さも、天候予測もつかずに
右往左往する状態であるのなら、その「病」は、現代において
「病」と定義される、その定義どおりに終始され
人は「病」という迷路から、抜け出すことも出来ないだろう、と。


昨日、通院して逆に症状が悪くなった「心の病」の話を
聞かされました。これは、御仕事とは関係の無い範囲での
出来事なのですけれど、前日は落ち着いていた人が、通院日に
出向いた後の出来事です。
外科は手術として「手」を使います。
けれど、心を扱う範疇の医師は、話術として「言葉」を用います。
その言葉が、どういう意図をもって発せられる自己一致なのかは
自分自身が解っていないと、尋常ではないリスクが付き纏うこと
それを認識出来ていなければいけません。
それが「玄人」というものだと私は思います。

話はそれて、合い間にもうひとつ、ニコラス・ゲイジの映画を
2本観ました。
「NEXT」と「ワールド・トレード・センター」です。

NEXTは、2分先の自分についての予知能力をもった人間のお話ですが
人には「先が見えぬ不安」というものが存在します。
ニコラスは映画の中で言います。
「人の未来は変えられる。何故なら、今を如何生きるかによって
先が変化するからである。」
だとしたら、先が見えぬ不安というもの
今、ここに生きている自分の判断を信頼するしかありません。
自己の判断の不確実性が、不安を増幅するのでしょうけれど
大丈夫、人には「日々の経験」というものが、我が身に
沁みついています。それが経験則というものです。

だからこそ、苦悩も病も含めて
そして、身近な者の「それ」も含めて・・・生きることには
「正の遺産」も「負の遺産」も、我が身の財産となると
私は、そう思います。

「人生において課せられた全てのことに怯まずに受けて立つ」
その姿勢を勇気をもって維持し続け、震えながらも立ち続け
そして、その連続性が、自分を強くしていくことを
信じながら、自己の判断への信頼を増幅させていきたい
そんなことを、書き綴ってみた秋晴れの連休です。






posted by junko at 15:27| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月12日

回顧

tukimi-2.jpg

成長の記憶を辿ってみると、私はあまり音を上げない人間だった
ようにも思えます。
自立を問う時「経済的自立」と「精神的自立」が語られますが
どちらも、度胸がよいせいか、何物にも屈せずに生きたいという
願望のせいか・・・「ふてぶてしさ」を人生の早期に身につけて
いたように思います。

今、回顧してみると親孝行には多少の「少」の字ばかりの
心配をかけていたほうが、人間的な親子の関わりが残存出来るような
気がしてきました。
「母」となりし時に、自己の依存心の片鱗が
守護すべき対象への力強さとして影を潜め、立ち上がる人も
いるでしょう。そして、成育する対象に対して自己の達成感を
感じ、それが自信となりゆくこともあるでしょう。
「母」という顔を守ってあげる為の
「ほんの、ちょっぴりだけの親不孝」それが実は、親孝行に
なりゆく可能性も秘めている・・・そんな事を考えていた昨今です。
posted by junko at 23:45| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月25日

知的好奇心

momiji_07-3-2.jpg

ここのところ、過密スケジュールで生きていますが
どうやら、肉体も精神も*平気*を、保っているようです。
カウンセリングルームに、御足をお運びくださった皆様には
本当に感謝です。m(_~_)m

考えてみると、小さい頃から、大学卒業くらいまで
寝ないで次から次へと「本」を読んでいたので
(漫画もたくさん読みました。(^_^))
少しくらい続けざまに過密した時を、過ごすことに、何も感じない
ようです。

フランスの思想家・モンテーニュの言葉に
「子供の教育とは、勉学の欲望と興味を喚起することが
一番、大切であり、そうでなければ・・・書物を背負った
ロバを養っているのと同じである。」という名文があります。

私の親は、一度も「勉強しなさい」と言ったことはありません。
(どうせ、親の言うことはきかない子と思っていましたから・・・)
だけど、子供の*知的好奇心*を、育てることには
天下一品だったと感じています。
どうやって・・・は、おいおい順を追って、スクールの中ででも
お話していくつもりですが、日本という国は特に
「知恵」や「知識」「勤勉さ」という頭脳に長けて
ここまでの成長を遂げた国だと思っています。

知的好奇心・・・それは、自我と共に発達可能だと思います。
子供が自発的に、学びへと進める道を開いてあげること
それが、今後の日本を左右する布石だと、私は思っています。

学びに、年期が入っていると・・・強いですよん。(*^_^*)
posted by junko at 00:33| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

ローマの哲人・セネカの説得力

seneka.jpg

人が生きるということを日々、咀嚼しながらの生を送った
*セネカ*の言葉には
彼自身が、人生という現実から、ひと時も目を離さずに苦悩を
受けとめ続けた説得力があります。

十代の中頃、巨大なタナトスを引き摺りながら生活していた私は
セネカの書簡集に出会いました。
アルバイトをしても、それが食費に消えてしまうような薄給の身には
セネカの著作は、手が届かない程、高価なものでした。
巨大なタナトスの中には、寂れたようなエロースも存在し退廃した
生が、むしろ自己の存在を確認していくような錯覚の中
反して理性的なセネカの言葉だけは、その説得力と共に
心に響いてきました。

セネカの著作の中には「心の病」について書かれた部分があり
それを思い出して、今、セネカを読んでいます。
心理学の本よりも、説得力があるかもしれない・・・
セネカの言葉を講義の中で広めていきたい、そう考えています。
そんな哲人・セネカは、結果
教え子である皇帝ネロによって惨殺されるのですが
堂々とした死に様は今も語り継がれています。

現代において、今、何故セネカなのか・・・
その志を著作から紐解いてみると理解できると思います。
ひとつだけ「ルキリウスへの手紙」から

富と哲学と
「多くの者にとって、富を得たことは苦悩の終わりではなくて
その変形だった」という、このエピクロスの言葉に僕は
驚きません。過ちは事物の中にでなくて、僕らの心にあるからです。


posted by junko at 18:50| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月04日

koten-kagami-4.jpg

人は*毒*を、飲みながら生きているように思える・・・
純粋であるということが、時折人に傷や火傷を齎す様を
垣間見ると・・・飲んだ毒が足りなかったようにも思え
強かさばかりを追いかけると、無垢だった頃の懐古の中に感動を
置き去りにしたかのように・・・毒を飲み過ぎたようにも思え・・・
毒をもって毒を制するのがよいのか
毒を洗い流してしまうのがよいのか
如何生きていくのが、生き易いのかと迷いのラビリンス。

もしかしたら、生き易さを求めることが愚問なのかもしれません。

            はたして人は
           不徳なくして徳を
           憎しみなくして愛を
      醜なくして美を考えることができるだろうか
       実に悪と悩みのおかげで地球は住むにたえ
         人生は生きるに値するのである
        byジャック・アナトール・フランソワ・ティボー

 
posted by junko at 01:17| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月12日

破壊

gyoryuuumeiconb.jpg

人から「貴方は、強い人だ。」と、よく言われます。
我ながら、そう思います。
けれど、そういう人間ほど、自分を壊していくものすらも
解っています。
今、それを避けることなく受容しています。
人は暗闇では、何も見えないです。
でも、眩いばかりの光が正面から射し込んできた時も
闇に落ちていきます。・・・その感性が自分自身だと感じながら。
posted by junko at 21:50| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月11日

経験

karne-3.jpg

蛇にかまれたものが
どんな苦しみを受けねばならないかは
自ら蛇にかまれたことのあるものにしか分からない
             byセーレン・オービエ・キェルケゴール


「匠」の技という言葉が、巷で流行しています。
先日、テレビを眺めていたら、御年90歳くらいになられるでしょうか
「日本酒作り」の名人と呼ばれる方のドキュメンタリー番組が
放映されていました。

ヤマタノオロチ伝説にも登場する「お酒」の醸造は
御醤油や御味噌と共に、日本の発酵文化の雅さを感じさせます。
そこには、磨かれた経験による五感の全てを使って仕上げていく
「経験」による熟成された文化が匠の自信と共に花開いていました。

人間は成長する過程において、多様な経験を経て
「生」という道程を熟成させていきます。
まさに、人生は自身という「匠」によって成熟を増す発酵文化です。
経験することにより、その対処能力を伸ばし、学びを得ていきます。

では、その過程において自身を「匠」と成すには
どんなことが必要なのか・・・
*賢*という域に達するには、どうすればよいのか・・・

日本酒作りの匠のように「五感」の全てを
「心、文化、行為・行動、社会」などに、向けていくことも
技作りの一端となると思います。
そして、全ての経験を、その結果の良し悪しを超えて
実りとするには、ひとつひとつのそれを
知恵や勇気や愛を礎として
咀嚼していくことが大切なのではないでしょうか。

生きることは、たとえ苦悩を伴っていたとしても
それすらも、自身の成熟した発酵文化であると、そう思っています。
posted by junko at 00:54| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月10日

マインド・コントロールの恐怖

rengetosizukuk1.gif

夜な夜なスティーヴン・ハッサンの著書
「マインド・コントロールの恐怖」を、読み漁っていた頃も
今では過去となりましたが
この名著に出てくる「カルト」の定義を
興味深く読むことになるとは、夢にも思わなかった今日です。

カルトの4つの主要なタイプは
(1)宗教カルト
(2)政治カルト
(3)心理療法または教育カルト
(4)商業カルト
と分別されます。

そう、この中に(3)心理療法・教育カルトが記載されています。
少し内容を紹介すると
集会室で何百ドルというワークショップやセミナーを開催し
「洞察」と「啓発」を提供し参加者に「絶頂」体験を
与えるためにマインドコントロールの手法を用いる。
そして、多くの人々は、この絶頂体験で終わりになるが
ある人々は絡め取られて、更に高価な上級コースの契約をする。
そして、その集団の網にからめとられてしまい
一度、その集団の人間になってしまうとメンバーは
親戚や職場の同僚などを連れてくる・・・・・・・続

集団心理の作用は、時には人間に対しAlterd State of Consciousness
にも似た意識の中を彷徨わせる作用をもたらしたりします。
まさに「依存」の中毒症状が現れたときに
この集団は、マインド・コントロールを
蔓延させるカルトとなります。
ここは、私たち心理療法を扱う者たちが注意深く取り組まねば
ならない部分です。
集団という共同社会を形成することは
けしてデメリットなことではありません。
しかし、扱う側の人間が、ひとたび自己を崩してしまうと
己が正義だという錯覚や幻想を描いてしまいます。

心理療法を駆使する私たちが
「純粋性の要求」を、自分たちの心に対し、他者の心に対し
履き違えるように希求すること
それ自体が恐怖の始まりだと認識していることが大事なのでは
ないでしょうか・・・。
posted by junko at 03:17| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月21日

退屈

biwa-siren-s1s.jpg


        理性を有する動物はすべて退屈するものだ。
            by プーシキン「ファウオスの一場面」

アレクサンドル・プーシキン、ロシア最高の詩人と言われます。
「退屈」・・・波乱万丈と、人から言われる私の人生には「退屈」が
ありませんでした。
何故か考えた時、とっさにプーシキンの一説が思い浮かび
「あぁ・・・理性がほとんど無いからかなぁ。」と
自らの心に留まりました。

意のままに瞬時に行動してしまい、考える間が余り無いというか
思考も瞬時に、まとまってしまう私は
(まとめているのか、どうかは???)
多分、ブレーキをかけることが無いので「理性」が
何処でかかっているか認識不能です。
もしかしたら感情の意のままに行動しているのかも知れません。

もう少し、思慮深い人にもなってみたいと思うのですが
そうなると・・・鳥肌で歩いているかもしれません。
だって、ショーペンハウエルの言うように
「私の幸せの敵は、苦痛と退屈」なんですもん。
posted by junko at 00:47| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

Love and Fear 愛と恐れ

koi-s.jpg

E・キューブラー・ロスは、著書「ライフ・レッスン」で
人の感情の根源を辿っていくと、二つの感情に辿りつく
それは「愛と恐れ」だと書いています。

愛からは幸福・満足・喜びなどが生じ
恐れからは孤立・拒絶・否定・失愛などを恐れる感情が生じます。

そして、時に人の厄介な点は「愛」を失くすことを「恐れる」こと
だと思います。
湧きあがる「愛」を、恐れるが故に思考で潰してしまうことも
あります。
先ずは、その一瞬、一瞬に
自己の感情を正直に汲み取ってあげたいものです。
そして、人生の一瞬、一瞬に、それを組み入れて生きていきたいと
思います。

何も「恐れる」ことなく生きていくことは
無理なのかもしれませんが、それならば、一日、一日を懸命に
生き抜くことで、恐れに拘る自身を小さく出来るかもしれません。

本当は人は、失くすものなど何も無いのではないでしょうか?
自分自身の存在そのものが、今、ここにあれば、それが
全ての始まりなのですから。
posted by junko at 00:45| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月17日

釈尊の言葉

botan-akari-2.jpg


迷いがあるから悟りもある
迷いが無くてどうして悟りがあろうか
迷いを離れて悟り無し
悟りを離れて迷いも無し

それゆえ、悟りに執着することも修行の妨げなのだ
                     by釈尊

人生を悟りへの道とする人は、少なくは無いと思います。
釈尊やキリストは、最強のカウンセラーと呼ばれます。
自分の思ったように生きて来た私は、もう「執着」は薄い方とは
思いますが、社会へのルサンチマン(怨念)を
支えに行動することが多いですから、未熟者なのだと思います。

「怒りや悲しみ」も、そして「憎しみ」も
人の感情に存在するものは、持ち得ていて然るべきという考え方を
しているので、これも悟りへの道には遠いことでしょう。
怒・悲・憎・・・それが、一縷の迷いもなく存在する場合
そこには、自己の真実があると思います。
ただ、それらの感情を一縷でも「持ってはいけないもの」
「いけないこと」「醜いのかもしれない」と、自分の中に感じた時に
人の苦悩は始まるような気がします。

いろいろな感情が一人の人間の中で交錯します。
「湧き上がるものを、あえて否定すること無く」
それも、ありのままで生きる人間らしさだと思っています。

はぁ〜\(◎o◎)/!・・・人が人たる所以を、いつまでも所持して
生きていこうっと! ! ! 凡人談でした。
posted by junko at 23:22| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

タブララサ

turigane-2.jpg

人間は生まれた時は白紙である    byジョン・ロック

「タブララサ」とは、ラテン語で何も書かれていない書版の意味を
持っています。
ロックは経験論〜人間の全ての知識は、我々の経験の結果である
とする哲学上または心理学上の立場〜を取りました。
経験論はアリストテレス・F.ベーコン・JSミルなどを
輩出しプラズマティックなものの考え方に、影響を与えました。
以前の社会科学においては「人間は白紙の状態をもって文化の中に
産み落とされ、その後文化的な鋳型によって人間性を形成していく」
という人間観にも、このタブララサ神話は繋がっていくのです。
人間性の内容は粘土の塊りのようなものだと・・・。

さて、それでは「オギャー」と産まれた赤ちゃんは
何も書かれていないタブララサなわけです。
鋳型を作っていくのは、誰かと問えば、脱タブララサを成しえた
経験をもった人達です。
そして、M.リドレーは遺伝学の中でこう書いています。
「遺伝子は神でも運命でも設計図でもなく、時々刻々と環境から情報を引き出し
しなやかに自己改造していく装置だった。」
遺伝子は、かなり柔軟性を持つようです。

白紙という意識の存在があるのなら、白紙を形成する少し前は
どんな按配なんでしょうか・・・苦笑。
分娩前という部分かなぁ。→N.S先生よろしく♪
ここは、私には手も足もでないような難解な議論が繰り返されると
思いますが、人間性とは何か・・・を熟考してみた時に
その発達と影響を与えるものの検証は、心を説くことに大切な学び
となっていくような気がしています。

それにしても。。。学問は、あれよ、あれよと繋がってしまいます。
最近、遊ぶ時間が無いのが・・・・悲しい(T_T)
posted by junko at 18:25| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月10日

ホロコースト

夜半に仕事が終わり、テレビを付けてみると仲村トオルさんが
出ていました。「東京大空襲」・・・3月10日
「あぁ・・・あの日は昭和20年の今日だったんだ・・・。」
ドラマを見るまで、思い出せずにいた自分が
少し恥ずかしく感じました。

ホロコーストと聞くと、ナチスを想起しますが
語源はギリシャ語のホロ=全体+コースト=焼く、だと思います。

米帝空軍が落とした焼夷弾は民間人、そして子ども達を
火の海の中に閉じ込め・・・
あたかも、日本人へのジェノサイドです。

帝国、確かに日本も帝国でした。
この輪廻は、いったい何を憎んだらよいのかと思います。
とある寺の僧侶は「憎しみからは、何も生まれない」と
語りますが、戦争の悲劇が過去に起きた出来事と
簡単に口に出せないような「殺戮」そのものである限り
私は「戦争」を憎むというよりも
人の業の愚かさ・・・それが憎くもあるのです。
posted by junko at 23:43| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

人の真の成長を問う

kintaro-3.jpg

人は自己の成長を、心のテーマとして日常を過ごしていると
思いますが、果たして人間にとっての真の成長とは
どんなことなのでしょうか。何処に行き着くのでしょうか。
銘々が「悟り」を目指しているのならば
何故に社会は、こんなに混沌とした心の歪みを作って
存在するのでしょうか。

HPに「人の真の成長を問う」を、書きました。
よかったら読んでみてください。↓
http://www.concierge-junko.com/htm/con_new110.html

現代社会に確かに確認できる「乾き」
潤いを得るためには・・・方向性とそれに基づく行動とは
そんな問いかけが、生きることとは何かという命題を
探求して歩む道標となることを確信して・・・
今、自分なりの行動の方向を確認するためにupしてみました。

何も行動しないでいれば、確かに転ぶこともないでしょうけれど
転ぶことも自己成長への一歩だと感じます。
うーーん、痛手を負う事には、もう慣れているかも・・・苦笑。
posted by junko at 01:18| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

憂国

yaezakura-L2.jpg

国家の価値は、結局それを構成する個人個人の価値である。
                   byJ・S・ミル

ミルはどちらかと言えば「不満足なるソクラテスたれ」という
言葉の方が有名ですが、私たちが生きている日本という国も
個人としての価値・個人としての資質が
問われる時代に突入してきたのだと思います。

右を向くと集団アィデンティティが、他の集団アィデンティティを
破壊すべく紛争し
左を向くと個人アィデンティティが、古き個人のアィデンティティを
老醜の如く置き去りにし

結局「自国が破壊される恐怖」と「個人が捨て去られる恐怖」の
裏返しが負なる方向性へと人を導いていくのでしょうけれど
その恐怖を抱えた個人が、恐怖を克服する手段として選択したのは
個人レベルで恐怖と向き合うということではなく
いかにして恐怖から逃げ出すかということであり
この設問の取り方の間違いが
現状を作り上げているのだと思います。

挙句の果てに・・・
「地球存続の危機」なる恐怖を呼び起こし
「温暖化」「エコ」「環境問題」なる言葉を
何年も、何年も、人類規模で語り続け、言い止めることを
知らないのは何故でしょう?

個人のレベルで自分が生きていく価値を
社会観や人生観や職業観などの中に、銘々が納得できる範囲内で
所有していくことを振り返ってみた時
粉塵を置いて去るよりも、後の世につなげられる何かを
その価値として刻んで生きることを実践していくことが
恐怖から解放される唯一の手段なのかもしれません。
posted by junko at 16:24| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月13日

マハトマ・ガンジーの言葉

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            束縛があるからこそ
              私は飛べるのだ
            悲しみがあるからこそ
              高く舞い上がれるのだ
            逆境があるからこそ
              私は走れるのだ
            涙があるからこそ
              私は前に進めるのだ


マハトマ・ガンジーの遺言詩と言われます。
現状認識を把握した上で、自分の有り方を選択し、生き方の方向性を
示した言葉ともとらえられます。

今、ある自分をもって、どう生きようか・・・それが
シンプルなスタートラインだと思います。
私自身も、こんなところから自分自身を発信していくことが
本来の自分らしさだと思っています。

一見、複雑多岐に見える人生もシンプルに物事をとらえていくことが
必要とされる場面を持ちます。
紆余曲折の中にあっても、シンプルさも忘れずにいたいと
座右の銘にしています。
posted by junko at 17:29| こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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